翌朝、アーシェは早い時間に起き、荷物をバッグの中にまとめると女主人に宿を出ることを告げた。女主人は陽が昇ったばかりという理由で引き留めてきたものの、行き先を告げると納得したかのようににそれきり何も言わなかった。

 ここからシェルサードへの国境までは徒歩で半日ぐらいかかるため、引き留める理由はなくなったのだろう。
 少し古びてきた黒いブーツの靴ひもをしっかり結ぶと、アーシェは礼を言って宿を出た。
 外に出ると、陽が昇って青く染まり始めたばかりの空が広がっている。そして、ワンピースの上から羽織った大きめの灰色のショールでも覆いきれなかった足の部分に、ひんやりとした空気が触れてくる。まだ十分に寒いといえるほどの冷たさだが、イヴァネスに初めて来たときよりはずっと和らいでいた。世界地図で北に位置するこの国は、さらに北に位置するシェルサードの次に春の訪れが遅いのだ。
 
 

 迷うことはない、看板も立ってるからと教えてくれた女主人の言った通り、分かれ道に出会う度に『国境はこちら』と表示された木の看板が立っていた。まだそんなに歩いているわけではないので、当然、『国境まであと少し』とか『国境までもうすぐ』といった表示が書かれた看板が出てくるはずはないのだが、『国境はこちら』のワンパターンだけだとぐんと距離感を感じてしまう。ワンパターンなのは看板だけではなくて、風景も同じだった。
 舗装はされていないが石ころひとつ落ちていない道、その両脇に真っ直ぐに並ぶ、葉をつけ始めた木々。

「まだまだかぁ・・・空が飛べたら、なんて考えちゃう」

 何十回目の曲がり角を通りすぎ、何十枚目かの『国境はこちら』の看板を見たところで、アーシェは青い空に向かって疲れたように呟いた。

 伝説では、魔女は箒を使って空を飛ぶのだという。初めてこのことを知ったとき、アーシェは笑いがとまらなくなった。実際は、自力で空を飛べる魔女は存在しない。魔女に限らず、魔法使いも魔術師も空を飛ぶことはできない。移動は、徒歩か馬車などを利用するか、魔法陣を使って転移するか、である。馬車を利用するには当然お金がかかるし、その金額は決して安いものではない。魔法陣を使うにも、転移先の魔法陣の形を知らないと使えない。アーシェはシェルサードの転移用魔法陣の形を知らないため、この方法も使えなかった。となれば、残るは徒歩しかなくなるわけである。

「まあ、愚痴を言ってたってしょうがない。馬車に乗って行って無一文でシェルサードに着くよりはいいんだし。ええと、着いたらまずは仕事を探して―――シェルサードだったら短期でも条件のいい仕事がありそう。イヴァネス(ここ)はどういうわけかダメだったし・・・でも、ひょっとしたら、シェルサードには魔女や魔法使いたちが溢れてるかも。そういう状態だったらさっさとモーリスやカサンディアに移動しなきゃ。移動したところで、仕事が見つかるって保障はないけど―――ん?」

 アーシェは唐突に立ち止まると後ろを振り返った。長めの金髪もその動きに合わせて揺れる。後方に見えたのは馬車だった。それも、大勢の旅行者を乗せる乗合馬車ではなく、貴族の馬車らしい。近づいてくるに従い、二頭の白馬が引いている車体がひどく飾り立てられたものであることに気づく。アーシェは道を譲るために道の端に寄った。馬車が横を通り過ぎるときに、優美な曲線の白塗りの車体は外側だけではなく窓枠も金で縁取られ、全体に何かの像が彫ってあるのが見えた。

「おとぎ話に出てくるような馬車って感じ」

 それも、お姫様が乗っているタイプである。女の子ならば誰もが憧れるように、アーシェも一度くらいはあんな馬車に乗ってみたいと密かに思っていた。現実には、金銭的に無理なのだが。

 馬車はガラガラと車輪の音を残しながら、あっという間に遠ざかっていった。
まだまだ道は続いているようで、見慣れた看板らしきものがこの少し先にまたひとつ立っているのが見える。きっとまた『国境はこちら』だろう。愚痴は言わないと決めたものの、ふうとため息が自然にこぼれ落ちた。



 結局、国境に辿り着いたのは昼を少し過ぎたころだった。併設してあったカフェで、安いサンドイッチとコーヒーのセットを食べてからシェルサードへの入国手続きをし、手続きが終わってから入国したときにはすでに夕方になっていた。 





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