ノースウッドの自室、ダークブラウンの机に白い封筒が積み上げられるのは日常の光景だ。
 最も、こうした光景は、彼の部屋だけではなく他の貴族の部屋でも見ることができた。

 中身は、こちらの機嫌を伺うものが大半を占めていたが、時々は重要なものも紛れこんでいたりするので、必ず全てに目を通すようにしている。

 いつからか、手紙や本といった文章に目を通すときは、若い頃は必要としなかった眼鏡と、少しずつの休憩がいるようになっていた。だが、目の前の山を相手にどこで区切りをつければよいのか、彼自身にも判断がつかなくなるときがある。そんなときに、よい頃合いでお茶を持ってきてくれるのは、彼よりもまだ少し若いが、同じように年を重ねてきた妻だった。

「あら、まだこちらにいらしたの?」

 彼と違い、まだ白髪一本ない黒髪をきっちりと結い上げた妻はそう口にしながらも、お茶のセットを乗せた銀のトレーを手に佇んでいた。
 若い頃から派手な服装を好まない妻は、落ち着いた印象を受ける色合いとデザインのドレスを常に選んでいる。今日着ている水色のドレスも、しっとりと落ち着いた生地のもので、装飾といっても、首周りと袖口の白いレースだけだ。

 左手側の壁にかけられた時計を見上げ、目を細めてから、彼は初めて返事をした。

「ああ」
「まだ時間があるのなら、休憩だってできますわよね?」

 ね?、と微笑みかけてくる妻は、もう部屋の中に入ってきている。

「そうだな」

 認めて手元の手紙を脇に置くと、ほっそりとした手がティーカップを彼の前に置いた。目の端から細かな白のレースが去ったかと思えば、右には砂糖入れを、その隣にはミルクポットを。

 昔は、どちらも溢れるくらいたっぷりと入っていたものだが、ここ数年は少なくなってきていた。こんなものに差し障りが出るほど領地の税収が悪くなったのかと、一度気になって調べさせたことがあったが、そんな事実はなく。理由がわからず、妻に聞こうと思っていたところ、幼い頃から仕えてくれている執事に言われたのだ。旦那様もそろそろお身体を気遣われませんと、と。

「雪が降るかしら」

 窓の外を見つめて言った妻の声音は、外の天気を真剣に案じているものではない。
 ティーカップの中に、ミルクと砂糖をどちらも全て入れてしまってから、彼も窓の外を見た。

「どうだろう」

 妻にとっても、彼にとっても、外の寒さは遠い国の出来事と同じだった。

「もし、雪が降ってきたら、アンナが―――――――ああ、そう!アンナに」

 妻が、娘の名を言うときは小言が多いのだが、時々はこうやって目を輝かせることもあった。

「殿下から、お声がかかりましたの!」

 ぴたり、と止まるまではいかなかったが、カップの中をかき混ぜるスプーンの動きがゆっくりとしたものに変わった。

「アンナに?」
「ええ!喜んでくださいな」

 喜んでください、と言われても、王子から声がかかった理由がよくわからない。

「またそんな難しい顔をされて」

 不満そうな妻の指摘に、すまない、と詫びるが妻の顔が変わらないということは、『難しい』ままらしい。

「殿下は何と?」
「わかりませんわ。でも、使いの方が、アンナにどうしても、と」

 どうしても、と言ったときには、そのときのことを思い出しでもしたのか、妻は機嫌を直していた。

「そうか」

 妻と同じように、素直に喜ぶべきなのかもしれない。王子に気に入られて損をすることはないのだから。そう思っていると――――
 ノックの音が聞こえた。

「どうぞ」

 声をかけると、「失礼いたします」と若い騎士が入ってきた。両手で、金の小さなトレーを持っている。その上にのせられているものが何なのか考える前に、トレーごと差し出された。

「クラウス殿下のお手紙を、お届けに参りました」
「ご苦労」

 白い封筒を取ると、騎士は一礼してから部屋を出て行った。

「まあ、何でしょうね!アンナのことかしら?」

 さらに目を輝かせた妻に、落ち着きなさい、と前置いて、彼は封を開ける。文面に目を通し、広げたばかりの紙を丁寧に折り畳んで封筒の中に戻すと、内容を知りたがっている妻を見上げた。



  
 



 会議室の中では、貴族たちが互いににこやかな表情で朝の挨拶を交わしあっていた。皆が黒の長衣なのは、それが伝統だから、らしい。
 白い重そうな楕円形のテーブルを囲む貴族たちの数は、30分前とくらべると確実に増えていた。
 貴族たちの顔ぶれは、長年ほとんど変わらず、各々の席も決まっている。
 席の数は、全部で20。当然だが、シェルサードにいる全ての貴族の分はない。席に座るためには、一定の権力なり、身分なりの条件が必要ということになる。
 席を得てしまえば、後はよほどのことがない限り、一族代々にわたって座り続けることができる。国の行く末を決める会議に、長く口を出し続けることができるというわけだ。

 テーブルにウィズの席はない。
 席がない、ということは発言権も一切ない。
 ここでの位置づけ―――ここだけではないが―――は、傍観者だった。
 別に異論はない。
 傍観者として存在するうえで、椅子を用意するという最初に解決すべき問題は、すでに10年前の2回目の会議の前に彼自身が解決してしまった。もうひとつ、増えた宮廷魔術師の席をどうするかという、新たに持ち上がった問題も、先週のうちに片付けてある。

 彼が座っているものと同じ緑色の箱型の椅子は、小さな木のテーブルを挟んで隣に置いてあった。
 それを見やって。

(・・・・・・?)

 何か忘れていることに気づいた。
 大事なことのような、そうでもないような。何だっけ、と考えかけて、すぐにやめる。

(すぐに思い出せないようなことなんて、たいしたことじゃないだろ。たぶん)

 言い訳がどこか投げやりになっているのは、会議が始まる前で憂鬱になっているからに違いない。
 与えられている役割が、単なる傍観者なのに、だ。




 リィィン―――――――
       リィィン―――――――


 ちょうど、部屋の扉の近くに置いてあったベルが振動する。誰かが鳴らしたわけではない。魔法によって、自動的に鳴る仕掛けになっていた。宮殿内で、ウィズが施した仕掛けのうちのひとつである。
談笑しあっていた、貴族たちの何人かが時計を仰ぎ見た。

(20分前か)

 なんてことはない小さなベルだが、各部屋に置かれているベルと連動している。
 もちろん、クラウスの部屋にも置いてあるので聞こえていないはずはないが、『無視する』という選択を取っているらしい。

 毎度のことだ。何も思うことはない。

 ベルが鳴り終わるのと同時に入ってきた、2人の侍女がお茶と菓子を貴族たちの前に置いて回っていく。
 見る限り、ほとんどの貴族が揃ったようだった。
 レインハルトの顔もある。目立って見えるのは、見目のせいだけではなく、周りとの年齢差もある。
 見ていることに気づかれると、わざわざ近寄ってくることもあるので、そうならない前に視線を外す。
 面倒事は少ないほうがいい。

 空席は三つぐらいといったところか。
 ひとつは、王妃自身の席。二つ目は王妃と宰相の間である。
 そこに座る者がクラウスだと皆わかっているが、誰ひとりとしてその不在を指摘する者はいない。
 三つ目は、確か、ノースウッドという名の伯爵の席だ。
 岩のように表情を動かさない男で、すれ違うときも無反応。自分にだけかと思っていたら、後日そうではなかったことがわかったという経緯がある。
 ほかの貴族たちと同様、いつも20分前を知らせるベルが鳴るときまでには席についているのだが、今日はまだ姿を見せていない。顔の印象が強いせいか、そういったことはきっちり守る男なのではないかと勝手に思っていたのだが。

(―――まあ、そういうこともあるだろ)

 侍女たちが部屋から出る際、置いていってくれたティーカップの取っ手に指をかけながら、これに関しても深く考えないことにした。
 まだ、時間はあるのだから。




 窓から注がれていた、日の光が途絶えた。
 陰が落ちた、それだけで部屋の中の温度が急降下したように感じる。
 窓辺に立つ背中を見たのは、どうすればいいのかわからなくなったせいもある。

 結局、クラウスは何も話さなかったのだ。
 毒を身体に慣らした理由も、毒入りの菓子が部屋にあった理由も。それがなぜ会議に出ない理由につながるのかも。
 気にならないわけではないが、本人が話さないのであればそれ以上は無理だ。
 最後の手掛かりを与えたのはクラウスだったが、言い当てたのはアーシェ自身。――――知ってしまった秘密は、心の奥に閉じこめておかなければならない。

 窓の外は、雲の色のせいか、白っぽく見えた。

(違う。雪だ)

 寒いと思ったのは、気のせいではなかった。
 粉の入ったボウルを、勢いよくひっくり返したかのような速さで降ってくる雪ではなく、暖炉を見る。火は入っていなかったが、幸いなことに薪は置いてあった。

「『火よ』」

 小声で命じた言葉に従い、ボゥ、とオレンジ色の光が膨れながら薪に絡みついた。
 糧を得てゆらりと揺れ動いた光が、炎に変化する。
 冷えはじめていた手をかざすと、当たり前だが暖かい。

「殿下、寒くありませんか」

 声をかけたのは、クラウスの着ている服が暖かさには縁遠いものだったからだ。

「別に」

 意識は、完全に窓の外の何かに向いているらしく、上の空といった声だった。

「そうですか」

 さっき、会議開始20分前を告げるベルが鳴ったのだが、クラウスは動かなかった。

(無理だよね・・・)

 ため息が出なかったのは、十分に予想できた結果だったからなのかもしれない。
 それはそれとして、ひとつ、やっておかなければならないことがあった。
 クラウスが窓辺にいる今が、チャンスだ。
 毒入り菓子の皿を取り上げると、くず箱に全て放りこむ。
 捨ててしまえば、さすがにもう食べようとはしないだろうから。

 ―――――毒とわかっているものを目の前で食べられるのは、気分のいいものじゃない。

(それは私だって同じなんだけど)

 毒に慣れていることを知った今も、あのときのことを考えると顔が強張りそうになる。
 人の身体は、アーシェたちと比べると、遥かに脆くて弱い。
 簡単で大切なことを、クラウスはわかっていないのだと思う。





 ガラス一枚隔てた向こうで、雪が斜めに横切っていく。穏やかに降ってきたはずの雪は、風が吹き出したことで吹雪になった。
 庭園や城門の外、先に見える山々はすでに白く染まっている。
 天気のせいか、誰の姿もない。
 後ろにいる魔女は、寒くはないかと尋ねてきたきり、静かになった。

(どちらかというと、そっちのほうが寒そうだけどな)

 最初の日の朝から、魔女の姿は目立った。
 宮殿の女たちは、滅多に足を見せない。そのように教育されているからだ。身に着けているドレスは、どれも裾が長い。女たちの目には、スカート部分が膝までのドレスを着ている魔女の姿は、奇妙に映っていることだろう。

 あれを作らせたのは、母親だった。大量の白い布やレースと王室お抱えの裁縫師が母親の部屋に入っていくのを見たのは、数週間前のことである。
 普通のドレスと違うものを作ったことに、どういった意図があるのかは知らない。母親の好むドレスとはまた違ったタイプなので、趣味ではないということだけは言える。

 ガラスには、彼の姿が映っていた。
 見慣れた顔の部分は曇っている。手で拭って、下を覗く。額をガラスにつけるとさすがに冷たいと思うが、そうしなければ庭園は見えない。

(時間がないぞ、ノースウッド)

 ベルはすでに2回鳴った。まもなく、今度は10分前を知らせる音が鳴るだろう。
 聞こえのいい言い方をすれば―――物静かなあの男が、宮殿内の自室から最も早くここへ到着するためには、庭園を横切るしかないのだが、姿は見えなかった。

(そこまで、)

 薄く笑って、窓から身体を離す。
 と、曇ったガラスの向こう、増え続ける白以外に現れた色があった。

 それをしなくても、見たいものがもうそこにあるのはわかっていたが、曇っている箇所に手のひらを滑らせる。
 途切れ途切れに水滴を残しながらもくっきりと見えた先、黒い長衣を着た男が庭園を急ぎ足で歩きながら、こちらに向かってきていた。
 ふう、と口から出たのはため息ではなく、笑い声。――――今日のところはここまで。
 暖炉の前へ立つアーシェの背中へ近付きながら、上機嫌で告げる。

「会議に出る」
「――――え?」

 間を置いて、意味のわからないことを言われたときの子どものような表情で振り返ってきたアーシェに、椅子にかけておいた上着を取り上げながら、もう一度言う。

「会議に出ると言ったんだが」
「そう、ですか。ええと」

 魔女は何か考える目つきをした後、ああ、とひとり頷き、「行ってらっしゃいませ」と急遽作ったとわかる笑みを浮かべてみせた。

「行ってらっしゃいませ?」

 誰かを送り出すときに使う言葉である。残る側、つまりは見送る側がかけるもので、それを言っているということはつまり。

「ウィズから聞いていないんだな?」

 緑の瞳を丸くさせたアーシェの顔に、じわじわと緊張が広がっていく。それでも、聞かなければならないと思ったのだろう。すっかり緊張しきった顔と声で聞いてきた。

「聞いていない、とは」
「宮廷魔術師も、会議に出る」
「?!」

 言葉にならなかったらしい。息を飲みこんだ音だけが聞こえた。


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